降誕節第二主日礼拝案内
日時:2024年1月7日(日)10:30~
聖書:コリントの信徒への手紙Ⅰ 13章1節ー13節
み言葉の伝え: 「愛がなければ」
交読文:1
讃美歌:413番、512番、205番
新聖歌:521番
*どなたでもご参加いただけます。
降誕節第1主日礼拝(2023年12月31日) み言葉の伝え
『一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです』
コリントの信徒への手紙一 12章 26節
本日の聖書箇所の冒頭に、『体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である』と記されています。そして、本日の聖書箇所の後半、二十七節には、『あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました』とあります。東金教会で考えてみても、牧師がおり、長老がおり、信徒の方々がいる。さまざまな形で奉仕をしてくださる方たちがいます。
しかし、ここで私たちが心にとめておかなければならないことは、教会が、一般の組織とはまったく根本から、その成り立ちから、異なっているということです。一般の会社には、社長がいて、取締役がいて、社員がいます。法律的なことを申し上げれば、会社が法人として成立するためには、会社法という法律に則って組織が作られています。
本日の聖書箇所では、『体』に教会が喩えられています。そして、ここで私たちが思い起こさなければならないは、では、人間の体とは、誰がお造りになられたのか、ということです。十八節に『そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです』とあります。人間、そしてその体というのは、神によって創造されたのです。
そして、イエス・キリストは、十字架の出来事によって、私たちを一つとしてくださいました。十字架は、縦と横が組み合わさって一つとなっています。縦の線、イエス・キリストによって、神様と人間との間を結んで一つとしてくださった。横の線、人と人との間を結んでくださった。その真ん中にイエス・キリストがいてくださり、一つとしてくださっています。
人間の体は、神様によって創造され、最初から一つです。教会も、キリストの体であり、一つです。一般的な会社であったら、会社の分割、分裂などは起きるかもしれない。しかし、キリストを頭とする教会は、『多くの部分があっても、一つの体なのです』と、教会は、イエス・キリストの体であるがゆえに、一つです。教会は、単なる人間の集合体であるとか、一般的な会社とは、根本的に違うものであるということです。
そして、その一つの教会に、私たちは神様によって、一つとして集められています。もともと、手、足、耳、目、口とバラバラであったものが一つに集まり、体が構成されているのではなく、もともと一つとして創造をされているのです。ですから、ここに集められている私たちも、バラバラであったものが集ったのではなく、最初から一つなのです。
そしてそれゆえに、二十六節『一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶ』ことができるのです。