復活節第2主日礼拝のご案内(2023年4月16日)10時半~

【聖書から】 

『マグダラのマリアは弟子たちのところに行って、「私は主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた』

                                              ヨハネによる福音書二十章十八節

 マグダラのマリアは、墓から石が取りのけてあるのを見ます。「石が取りのけてある」というのは受身系です。石が自然に動いたのではない。何者かが動かした。夜の暗い間に、安息日で人が関与できない時間帯、つまり人間が関与することができないところで、神様はすでに働いておられた。人の思いに先立って、すでに恵みの業をなさっています。

 十一節で「マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見る」とあります。私たちは、ただ、死、命の終わりという現実の前に、絶望するしかない。目の前に困難が立ちはだかる。死、老いというのは人間では越えることのできないものです。その現実の前に、墓の前で、ただただ身を屈めて泣き続けるしかない。

 天使たちが「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません」と答えます。イエス・キリストが復活の希望を与えてくださる、絶望を越える希望を与えてくださる方ということを見失い、ただ泣き続けるしかない。

 そのようなマリアに、イエス・キリストは、「マリア」と名前を呼ばれます。神様が、私たち一人ひとりの名前を読んでくださり、復活の信仰を与えてくださるのです。マリアは、二度、振り返っています。十四節で、後ろを振り向くと、イエスが立っておられるのが見えた、しかし、それがイエスだとは分からなかった。イエス・キリストが、私たち一人ひとりの名前を呼んでくださいます。イエス・キリストが「マリア」と呼んだとき、振り返ります。墓の方向を向いていた。ただ、身を屈めて泣いているしかないマリアが百八十度、違う方向を向き、復活の希望を与えられたのです。

 マグダラのマリアは、十八節で「マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、『わたしは主を見ました』と告げ、また、主から言われたことを伝えた」と記されています。復活の希望を与えられたマグダラのマリアは、復活を告げ知らせる者となります。

本日の聖書箇所で、マグダラのマリアは三回、「どこに置かれているのか、わからない」と言います。私たち一人ひとりに、「あなたは、イエス・キリストがどこにおられるのか、わかりますか?」と問われています。イエス・キリストは、「マリア」と私たち一人ひとりの名前を呼んでくださいます。私たち一人一人と共にいてくださいます。

 私たちは、復活のイエス・キリストを信じ、「わたしは主を見ました」と告げ知らせる者として、この世へと遣わされてまいりましょう。