【聖書から】
二千二十三年二月十九日(日)
「時刻になったので、イエスは食事の席に着かれたが、使徒たちも一緒だった」
ルカによる福音書二十二章十四節
本日の聖書箇所冒頭『時刻になったので、イエスは食事の席に着かれたが、使徒たちも一緒だった』というこの日本語訳は、翻訳した方の工夫が滲み出ています。『席に着かれたが』という『たが』が、日本語をとてもぎこちなくしているからです。日本語として自然に訳そうと思えば、『イエスは食事の席に着かれ、使徒たちも一緒だった』の方が綺麗です。聖書協会共同訳では、『時刻になったので、イエスは食事の席に着かれた。使徒たちも一緒だった』と文をわざわざ二つに分けるという工夫をしています。
『イエスは食事の席に着かれたが、使徒たちも』また『イエスは食事の席に着かれた』とそのように訳しているのは、とても大切な意味があるからです。それは、先にイエス・キリストが食卓に着かれたのだ、ということを明確に現すためです。イエス・キリストの食卓である、神が備えてくださった食卓であるということを現すためです。イエス・キリストを中心とする食事の席であるということです。
そして、その席に使徒たちも座る。『弟子たち』ではなく、使徒たちも座るのです。弟子たちが、主の晩餐の席で、イエス・キリストと共に座り、十字架と復活、そしてペンテコステの出来事によって教会を形成し、福音を宣べ伝えていく使徒たちとなることが先取りされているのです。
十五節では「苦しみを受ける前に、あなたがたと共に、この過越の食事をしたいと、私は切に願っていた」とイエス・キリストは言われています。イエス・キリストが、使徒たちと共に食事をしたいと熱心に、熱く、切実に願っています。そして十七節より、主の晩餐、聖餐が始まります。私たち教会が、聖礼典として聖餐式を重んじている理由です。なぜ、私たちは、聖餐式を行うのでしょうか? 主イエス・キリストが、切に願っていらっしゃるからです。人間ではなく神が節に願っている。どれほど切に願われているのか?
イエス・キリストは、パンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、「これは、あなたがたのために与えられる私の体である」と使徒たちに言われる。さらに、「この杯は、あなたがたのために流される、私の血による新しい契約である」と言われます。
十字架によって、体が裂かれ、それがあなたがたのために与えられる。血が、あなたがたのために流される。自分自身を与えるほどに、切に願っていた主の晩餐です。
「あなたがたのために与えられる」という、ひたすら神が切に願い、神から人へと与えられる決定的な一方通行の恵みが、私たちに流れ込んでいるのです。