【聖書から】
『わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です』
コリントの信徒への手紙Ⅰ 三章六節
本日の聖書箇所の前半にて、パウロはコリントの教会の人々へ、かなりカチンと頭に来るようなことを最初に述べます。「兄弟たち、わたしはあなたがたには、霊の人に対するように語ることができ」なかった。さらに、「キリストとの関係において乳飲み子である人々に対するように語る」と記しています。現代の私たちもこの感覚は共有していると思いますが、「あなたは子どもですね」と言われると、カチンと来ます。コリントの教会の人々を、子ども扱いを超えて、乳飲み子と記しているので、かなりカチンと来る言葉です。さらに、「わたしはあなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。まだ固い物を口にすることができなかったからです。いや、今でもできません」と追い討ちをかけるように述べています。
そして、三節以下で、どうしてパウロがそこまで厳しいことを言うのか、ということが記されています。「お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか」と、ここで再びコリントの教会が抱えている問題について言及します。「ただの人として歩んでいる」というのは、神様から離れた歩みをしてしまっているという意味です。
五節に「アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。」とパウロ、またアポロは、人の知恵を語るためにコリントの教会に遣わされたのではない。与えられた賜物に従って、その役割を果たしているだけなのだ、と伝えています。
「植える者と水を注ぐ者とは一つ」とあるように、植えるのと、水を注ぐの、どちらの役割が大切か、というようなことではなく、それぞれパウロにはできることもあるし、できないこともある。アポロにも賜物があり、また、できないことがある。しかし、与えられた賜物によって、一生懸命に福音を述べ伝えた。その二人の苦労に、コリントの教会という実りを与えてくださったのは神様ご自身である。
本日の聖書箇所の最後には、「わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです。」と記されています。
本日の聖書箇所冒頭で、パウロがなぜ、厳しい言葉を使っているのか。「わたしたちは神のために力を合わせて働く者である」ということをコリントの教会の人々が忘れてしまっているからです。誰が、どれだけ大きい働きをしているか、植えた方と水を注いだ方、どちらの働きが大切か、と、私たち人間はすぐに霊の人ではなく、「人として」歩んでしまいます。「私たちは、神の畑、神の建物です」。耕し、建築し、すべてを備えてくださっているのは、神様です。