ルカによる福音書24章13-35節
心が燃えている、というのはどのような状態なのでしょうか。マカオへの道の途上の二人は、道で話しておられるとき、わたしたちの心は燃えていた、また、聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたと、後から心が燃えていたことに気づいています。
燃えている、というと火のような苛烈さを想像してしまいがちです。真っ赤になった炭火のように、近づけば火傷しそうな苛烈な状態を燃えていると思ってしまいます。私たちはときとして、一生懸命自分で興奮をかき立てるような、自分自身が燃えている、輝いている、自分自身がいかに成功しているのかを示したくなってしまいます。自分自身が激しい炎で燃え続けるためには、多くの燃料が必要です。
本日の聖書箇所の二人の弟子は暗い顔をしています。その理由は、十九節以下に記されています。「ナザレのイエスのことです」「わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました」
過越の祭りの熱気があふれるエルサレムではなく、寂しい祭りの熱狂から冷めたエマオへの道の途上。のぞみをかけていたが失望に変わった。二人の心の中で、自分で自分の心を燃やす燃料がなくなってしまった。光がなくなってしまって暗い。イエス・キリスト自身が近づいてきて、二人を照らしてくださっているのに、それにも気づけないでいるのです。
そのような二人に、イエス・キリストは聖書全体にわたり、ご自分について書かれていることを説明される。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」
私たちは、自分の心を燃やすために、日々、燃えるものを探して回わり、それがなくなれば、暗い顔をして立ち止まってしまうのでしょうか。それとも、イエス・キリストの灯、光に照らされるのでしょうか? 共にエマオへの道を歩いてくださっていたのがイエス・キリストであると気づいた二人は、三十三節で不思議な行動にでます。すぐに宿をたち、エルサレムに戻るのです。二十九節で、「そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言っていた二人です。もう夜になっていたでしょうし、夜道です。燃やすもの、照らす灯がないと、宿からエルサレムへとその道を戻ることなどできないはずです。しかし、戻ります。エルサレムからエマオへと向かっていたときは、太陽が昇っていても、光を失って二人は暗い顔をして歩いていた。しかし、今や、二人の心は燃えている。クリスマスの日、キャンドルサービスで私たちの心の中にキリストの灯が宿ったように、二人は、再び、キリストの光に照らされ、暗い夜道を、光を携えて、心燃やしながら、エルサレムへと急ぎ帰るのです。復活のイエス・キリストが、一生燃え続ける信仰の火を、灯し続けてくださっているのです。