聖霊降臨節第20主日礼拝(2023年10月8日(日)10時30分~)礼拝案内

日時:2023年10月8日(日)10:30~ (1時間ほど)
聖霊降臨節第20主日礼拝
聖書:コリントの信徒への手紙Ⅰ 8章1-13節
み言葉の伝え:
「唯一の神以外にいかなる神もいない」
交読文:39
讃美歌:66番、286番
新聖歌:482番

*どなたでもご参加いただけます。

*2023年10月1日(日)の礼拝の御言葉の伝えの配信は、機材トラブルのため、ありません。

聖霊降臨節第19主日礼拝 み言葉の伝え要旨

『あなたがたは、身代金を払って買い取られたのです。人の奴隷となってはいけません』
   コリントの信徒への手紙Ⅰ 七章二十三節

十八節に「割礼を受けている者が召されたのなら、割礼の跡を無くそうとしてはいけません。割礼を受けていない者が召されたのなら、割礼を受けようとしてはいけません」とあります。ユダヤ人の男児は、生まれて直ぐに割礼、というものを行うことを習慣としています。その割礼を受けたユダヤ人が、イエス・キリストを信仰する信仰が与えられたあと、割礼の後が自分にあっても良いのだろうか、と悩んでしまう。また逆に、ユダヤ人以外には、割礼の習慣がないので、信仰が与えられたあと、自分にはユダヤ人のように割礼の跡がないけれど、それで良いのだろうか、と悩んでしまう。
 私たちには、割礼をするという習慣もなく、そのような悩みとは無縁であるかと思いますが、それとは違った悩みを抱えます。イエス・キリストに召された自分が、このようであっていいのだろうか、と悩むということはあるかと思います。
 本日の聖書箇所の冒頭、聖書協会共同訳でもう一度お読みしますと、「おのおの主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召されたときのままの状態で歩みなさい。これは、すべての教会で私が命じていることです」とありました。パウロは、そのままの状態で良いのだ、と語ります。もちろん、そのような状態を良くする努力をしなくてもよい、というような意味で言っているのでもなく、もっと信仰の根源のことを言っています。
 本日の聖書箇所に記されている割礼の有無、割礼があると悩む。また、割礼がない、と悩む。しかし、二十三節に「あなたがたは、身代金を払って買い取られたのです」とあります。イエス・キリストが身代金を払って私たちを買い取ってくださった。
スーパーで野菜を選ぶとき、痛んでいないかなど、見ます。痛んだ野菜を購入しないのは、その痛んだ野菜に価値を置けないからです。その代金を惜しむからです。しかし、イエス・キリストはそうではありません。「あなたがたは、身代金を払って買い取られたのです」。
イエス・キリストが、あなたは、私自身が、自分が十字架にかかり、自分の命を投げ出して、自分の命を対価として払ってでも、あなたを買い取る、と言われ、そして実際に十字架にかかってくださいました。イエス・キリストが、あなたに計り知れない価値を見出してくださっています。
三十五節に「このようにわたしが言うのは、あなたがたのためを思ってのことで、決してあなたがたを束縛するためではなく、品位のある生活をさせて、ひたすら主に仕えさせるためなのです」と、自分に割礼があるのかないのか、老い、病、また、自分が未婚なのか独身なのか、婚約状態なのか、やもめであるのか、さまざまな状況の中にあって、イエス・キリストが、あなたに計り知れない価値を見出してくださり、身代金を払って買い取ってくださったことを忘れず、感謝して仕えていきない、ということです。