聖霊降臨節第21主日礼拝(2023年10月15日(日)10時30分~)礼拝案内

日時:2023年10月15日(日)10:30~
聖霊降臨節第21主日礼拝
聖書:コリントの信徒への手紙Ⅰ 9章1-18節
み言葉の伝え:
「福音を宣べ伝える人」
交読文:40
讃美歌:73番、234A番
新聖歌:434番

*どなたでもご参加いただけます。

聖霊降臨節第19主日礼拝 み言葉の伝え要旨


「偶像に供えられた肉について言えば、「我々は皆、知識を持っている」ということは確かです。ただ、知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」

                                                   コリントの信徒への手紙一 8章1節

本日の聖書箇所では「偶像に供えられた肉」についてのことが記されています。この問題に対して、パウロは信仰的な判断の基準となることを、福音に光を当てながら説明をしています。
 本日の聖書箇所の冒頭で、「偶像に供えられた肉について言えば、『我々は皆、知識を持っている』ということは確かです」と、パウロは『我々は皆、知識を持っている』とコリントの教会の人々の言葉を引用しています。この問題に関しての、コリントの教会の人々の意見は、四節に記されているように、「偶像に供えられた肉を食べることについてですが、世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています」、ゆえに、その知識を持っているので、偶像に備えられた肉を食べることは、まったく問題ない、というものでした。パウロも、このことに同意した上で、1節後半で、「ただ、知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」と述べています。
 愛は造り上げる、愛は建て上げる。家や教会でも、愛によって建てていかなければならない。土台となるものは、キリストである、とパウロは述べています。そこに、キリストの愛に基づいて、築いていかなければならない。偶像の神はそもそも存在しないので、その偶像の前に置いた肉を置いたとしても、なんら肉そのものに影響はないので、食べてもOK、ということは、知識としては、まったくその通りですし、合理的です。しかし、その知識を持って判断するとき、キリストの愛がそこにあるのか、もう一度考えてみなさい、とパウロはいうのです。
 愛があるのだろうか。愛によって建てあげていくことを無視していないだろうか。むしろ、知識が人を高ぶらせ、驕っていないだろうか。私たちの土台にあるものを忘れていないだろうか。
十一節には、「あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます。その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです」とあります。また三節には、「しかし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです」とあります。神様が、私たちのことを知っていてくださっている。神様が、私たちにイエス・キリストをお与えになり、イエス・キリストは私たちのために死んでくださった。そして、命を注いで私たちを活かしてくださっている、愛してくださっています。そして、偶像に備えた肉を食べても良いのだろうか、と迷ってしまう、そのような人たちのためにも、イエス・キリストはその血を流してくださった。
私のために、イエス・キリストが血を流してくださったということが真実であるのと同様に、あなたのためにイエス・キリストが血を流してくださったことも真実です。私たちは、キリストを土台として、キリストの愛によって、愛を築き上げていかなければなりません。
「ただ、知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」。天地万物を創造された唯一の神を主と崇め、イエス・キリストの愛を持って、日々の生活を造り上げてまいりましょう。