【礼拝案内】
日時:2023年11月19日(日)10:30~
降誕前第6主日礼拝(幼児祝福礼拝)
聖書:マルコによる福音書
10章13節-16節
み言葉の伝え:
「子供のように神の国を受け入れる」
交読文:45
讃美歌:461番、460番
新聖歌:482番
*どなたでもご参加いただけます。
降誕前第7主日(召天者記念礼拝)御言葉の伝え
『わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか』
コリントの信徒への手紙Ⅰ 十章十六節
本日の聖書箇所の冒頭では、「わたしの愛する人たち、こういうわけですから、偶像礼拝を避けなさい」と記されています。パウロがコリントの教会の人々に、私の愛する人たち、と語りかけるのはここが初めてです。それだけこれから、厳しいこと、困難なことを言うということです。厳しさというものが、愛の無さと混同されやすいです。厳しさの奥にある愛は、誤解されやすく、また、理解されないこともあります。また、それが、愛があるゆえに厳しかったのだ、ということを理解するのに、多くの時間を必要とするときがあります。本日は、召天者記念礼拝です。先に天に召された方々のことを思い起こしてみたとき、また、自分自身の人生に大きく影響を与えたと思う方を思い返す時、優しい言葉があり、笑顔があり、そして、愛のある厳しさがあったのではないでしょうか。
さて、本日の冒頭には、偶像礼拝を避けなさい、とあります。避けなさい、を直訳すると、逃げろ、遠ざかれ、という意味です。さらに言えば、消極的な意味で言っているのではなく、積極的な意味です。ただ、避けて通りなさい、とか、近寄らないでいるというだけでなく、できるだけ遠くまで逃げろ、ということです。
人間は危険なものに惹かれてしまう傾向があります。パウロは、偶像礼拝からは、ひたすら、できるだけ遠くに逃げろ、というのです。なぜ、偶像礼拝を避けなさい、と言うのでしょうか。そもそも、偶像礼拝とは何でしょうか。二千年近く前のコリントの街のように、あちらこちらに神々の像があり、日常的に、それに捧げられた肉が、市場で売っているというような状況はないかもしれません。しかし、私たちを、イエス・キリストから引き離そうとする誘惑はたくさんあると思います。現代における偶像は、例を挙げればキリがありません。洗礼を受け、自分自身の体をイエス・キリストに捧げるという決意を揺るがそうという誘惑は多々あります。
二十二節には、「それとも、主にねたみを起こさせるつもりなのですか」とあります。イエス・キリストが、ねたむのかとお思いになるかもしれませんが、神は、熱情の神です。私たちのすべてを、ご自分の恵みの中に、イエス・キリストのうちにお入れになり、救おうとされています。本日の聖書の最後には、「わたしたちは、主より強い者でしょうか。」と記されています。誘惑は多いです。しかし、私たちよりはるかに強いイエス・キリストが共にいてくださいます。私たちは、イエス・キリストを信じて、誘惑からただ、逃げれば良い。イエス・キリストが共にいて、私たちを守ってくださいます。コリントの教会の人々も、そして、東金教会の天に召された信仰の先達たちも、地上での歩みにて、誘惑を避け、主の恵みと守りのなかを歩みました。私たちも、イエス・キリストを信頼し、この世の旅路を歩んでまいりましょう。