聖霊降臨節第16主日礼拝(2023年9月10日(日)10時30分~)礼拝案内

日時:2023年9月10日(日)10:30~
聖霊降臨節第16主日礼拝
聖書:コリントの信徒への手紙Ⅰ 6章1-11節
み言葉の伝え:
「神の霊によって洗われ、義とされる」
交読文:35
讃美歌:175番、237番
新聖歌:259番

聖霊降臨節第15主日礼拝 み言葉の伝え要旨

『内部の人々をこそ、あなたがたは裁くべきではありませんか。』
   コリントの信徒への手紙Ⅰ 五章十二b節


 本日の聖書箇所では、「外部の人々」と「内部の人々」というように区別があります。外部の人々を裁くのではなく、この世にあってキリストの光で照らしていく。以前書いた手紙は、そのような趣旨であった、とパウロは記しています。


 しかし、内部の人々に対しては、かなり厳しいことを記していて、戸惑うかもしれません。


 十一節には、「わたしが書いたのは、兄弟と呼ばれる 人で、みだらな者、強欲な者、偶像を礼拝する者、人を悪く言う者、酒におぼれる者、人の物を奪う者がいれば、つきあうな、そのような人とは一緒に食事もするな、ということだったのです」と記しています。兄弟と呼ばれる人、ということは、コリントの教会の兄弟姉妹、内部の人ということです。愛の共同体である教会で、悪に陥っている人たちを除外せよ、というのは厳しいと戸惑われるかもしれません。


 どういうことなのでしょうか。パウロが指摘しているのは、三つの態度です。一つが、「みだらな者」「酒に溺れるもの」です。深酒をすると、泥酔するまで飲むと、健康に悪い、という健康上のことを言っているのではありません。私たち一人ひとりが、神様に愛された子供です。私たちは、神の子です。この世の中に生きつつも、神様を見上げながらこの世の旅路を歩んでいます。何度かご紹介していますが、ハイデルベルク信仰問答の最初の問いは、「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。」です。そして、「わたしがわたし自身のものではなく、身も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主、イエス・キリストのものであることです。」とあります。私たちは、本能を満たすために生きているのではないということです。聖霊を与えられた存在として、キリストのものとして生きている。そのことを忘れていないだろうか? そう問いかけています。


 二つ目が、「強欲な者」「人を悪く言う者」「人の物を奪う者」です。一つ目が、自分自身に対する態度であるのに対し、二つ目は、隣人に対しての態度です。私たちが物質的な基準ですべてを判断するのであれば、利害関係だけとなります。助け合うべき兄弟姉妹と見ず、利用する存在としてしかみない。隣人を自分のように愛することを忘れてしまっていないだろうか? と問いかけています。


 三つ目が、「偶像を礼拝する者」です。一つ目が自分自身への態度、二つ目が隣人への態度。三つ目は、神様への態度です。神様に、人生のおける唯一最高の地位を捧げるという根本的なことを忘れてしまっています。


 神様は、私たち一人一人を愛してくださり、見放すことがありません。私たちも、今日から始まる一週間、兄弟姉妹に対して、愛と信仰を持って、関わっていこうではありませんか。