聖霊降臨節第14主日礼拝(2023年8月27日(日)10時30分~)礼拝案内

日時:2023年8月27日(日)10:30~
聖霊降臨節第14主日礼拝
聖書:コリントの信徒への手紙Ⅰ 5章1-8節
み言葉の伝え:
「純粋で真実のパン」
交読文:33
讃美歌:183番、321番
新聖歌:254番

*どなたでもご参加いただけます。

聖霊降臨節第13主日礼拝 み言葉の伝え要旨

『キリスト・イエスに結ばれたわたしの生き方を、あなたがたに思い起こさせることでしょう。』
    コリントの信徒への手紙Ⅰ 四章十七節


 本日の聖書箇所の十五節後半に、「福音を通し、キリスト・イエスにおいてわたしがあなたがたをもうけたのです」とキリスト・イエスにおいて、と語っています。福音を通して、私たちは天の父の子供となり、そして、パウロとコリントの教会の人々の間にも、親と子の間にあるような信頼関係や愛の交わりが生まれた。パウロの、コリントの教会の人々と、とことん、関わろうとする姿勢です。二十一節には、「あなたがたが望むのはどちらですか。わたしがあなたがたのところへ鞭を持って行くことですか、それとも、愛と柔和な心で行くことですか」と記されています。鞭を持ってでも、愛と柔和な心でも、とことん、関わるぞ。さらに十八節では、「わたしがもう一度あなたがたのところへ行くようなことはないと見て、高ぶっている者がいるそうです」と記されています。もうコリントの教会に、こちらにパウロが来ることはないだろう、もう関わりがない、と思っている人もいるらしいけど、私はとことん関わるぞ。なぜなら、私たちはキリスト・イエスに結ばれた親子、家族なのだから。ですからパウロは、「キリストに導く養育係があなたがたに一万人いたとしても、父親が大勢いるわけではない」と記しているのです。


 教誨師の研修会で、塔和子さんの「胸の泉」詩がという紹介されました。


 『ああ

  何億の人がいようとも

  かかわらなければ路傍の人

  私の胸の泉に

  枯れ葉いちまいも

  落としてはくれない』


 池に葉っぱが落ちる光景を見たことがあります。たしかに葉っぱが落ちたときも、微かな波紋が生まれていました。関わらなければ、それすらも起こらない。「キリストに導く養育係があなたがたに一万人いたとしても、父親が大勢いるわけではない」は、「ああ 何億の人がいようとも かかわらなければ路傍の人」と同じことを言っています。


 パウロは、コリントの教会の人々と、関わり続けようとする姿勢です。コリントの教会の人々の胸の泉の水面を揺らすためです。
 私たちの胸の泉の水源はどこでしょうか。ヨハネ福音書のサマリアの女の物語でイエス・キリストは、「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と教えられました。私たちの胸の泉の奥底で、イエス・キリストの、永遠の命に至る水が湧き出ています。そして、私たちは「キリスト・イエスに結ばれた生き方」をする。


 隣人たちと関わり合いながら、大きな水紋を水面に起こすことはできなくても、関わり合い、枯れ葉一枚落とし、小さな水紋を互いに起こし続けていく。今日から始まる一週間も、キリストに結ばれたそのような生き方をしていこう。

胸の泉に    塔和子

かかわらなければ
この愛しさを知るすべはなかった
この親しさは湧かなかった
この大らかな依存の安らいは得られなかった
この甘い思いや
さびしい思いも知らなかった
人はかかわることからさまざまな思いを知る
子は親とのかかわり
親は子とかかわることによって
恋も友情も
かかわることから始まって
かかわったが故に起こる
幸や不幸を
積み重ねて大きくなり
くり返すことで磨かれ
そして人は
人の間で思いを削り思いをふくらませ
生を綴る
ああ
何億の人がいようとも
かかわらなければ路傍の人
私の胸の泉に
枯れ葉いちまいも
落としてはくれない