日時:2023年12月3日(日)10:30~
降誕前第4(待降節第1)主日礼拝
聖書:コリントの信徒への手紙Ⅰ
11章2節ー11章22節
み言葉の伝え:
「むしろ悪い結果を招いている」
交読文:47
讃美歌:105番、98番、205番
新聖歌:72番
*どなたでもご参加いただけます。
降誕前第5主日(2023年11月25日(日))御言葉の伝え
「だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい」
コリントの信徒への手紙Ⅰ 10章 31節
本日の聖書箇所の冒頭では『「すべてのことが許されている」しかし、すべてのことが益になるわけではない』と記されています。再び“自由”の問題が取り上げられています。
パウロは、私たちが自由に生きることを赦されていることを、認めています。しかし、その自由が、どの方向に発揮されるのかを問うています。自由であるということは、私たちの具体的な行動を選択する基準や指針にはなりません。すべてのことが許されている、自由に生きる者が、愛に生きていく。
三十二節以下にあるように『人々を救うために、自分の益ではなく多くの人の益を求めて、すべての点ですべての人を喜ばそうとしている』と、人々を救うために、多くの人の益のために、自らの自由を使っていく。私たちにはそのような自由が与えられています。
しかし、二十八節では、状況が異なっています。『しかし、もしだれかがあなたがたに、「これは偶像に供えられた肉です」と言うなら、その人のため、また、良心のために食べてはいけません』とあります。どのような状況でしょうか? 信仰を持っていない人から食事のパーティーに招待されて、食事の席につきました。するとそこに誰かがいて、「これは偶像に供えられた肉です」と言って、食べて良いのかと心配をしている。心配をしているから伝えてきた。そこで、「私たちは自由ですから」と言って、食べてしまうと、その心配をした人の良心を傷つけてしまう。ここでパウロは、「周りのものがなんと言おうが、私は自由なのだから、その自由を貫く」ということだけが自由であることでもない、と伝えています。他人の良心を傷つけないとすること自体も、自由の現れで、感謝を持って、なんでも食べることができる自由があるからこそ、他人を傷つけないために、それを断つ自由も、そこにはあるのです。
私たちの周りを見渡すと、自由が溢れています。そして、自分が持っている自由を百パーセント使いきらないと、自分が損をしてしまっているかのような気になってしまいます。メディアでは、SNSでは、友人は、自由を百パーセント使いきっているように見える。新聞・報道等では、他人に迷惑をかけてでも自由を得ようとしている記事がある。他人を殺してでも、自らの自由を使い切ろうとします。
私たちはどうすべきであろうか? 三十一節には、「だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい」とあります。私たちが、すべてのことを許されているのは、神の栄光を現すためです。私たちに自由が与えられているのは、神の栄光を現すためなのです。
私たちが、神の栄光を現すために、その自由を使わないという判断をしたとしても、私たちが何かを損をしたりすることはありません。他の人を躓かせないように、その自由を、自由に使うことも、使わない自由も、神様は私たちに託してくださってるのです。