<先週の御言葉の伝え>
【聖書から】 二千二十三年一月十五日(日)
「イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、・・・その日は、イエスのもとに泊まった」 ヨハネによる福音書一章三九節
顕現節第二主日はマタイからヨハネ福音書へと日課は移る。この御言葉は「その翌日」とくり返される本論初めの二日目から四日目までの三日間の物語の後半部分の一節である。顕現というキリスト教用語は三一節に見られ、主イエスの出現つまり自己開示を意味し、啓示とほぼ同じ意味である。
ヨハネ福音書には、主イエスの受洗場面は記されておらず、洗礼者ヨハネによる主イエスの証言者としての役割が明示されている。しかし彼がその使命に徹すればする程、周囲の焦点は自身から主イエスへと移す。主イエスの顕現がこの焦点移動を確かなものとする。その必然の結果が「二人の弟子」の追随すべき御方の鞍替えである。アンデレともう一人は「イエスに従った」。洗礼者は彼らを手放し委ねる。証言者は誰であれ人の心が主イエスに結ばれていくことを喜びとする。
彼ら二人の弟子は主イエスの滞在場所に関心を示す。主イエスは彼らを招かれる、「来なさい。そうずれば分かる」。約束を伴うこの招きは主イエスならではの招きである。彼らは主イエスのもとに一泊する。くり返される「泊まる」という言葉は滞在だけではなく、人格的な交わりを意味する。この言葉はすでに「とどまる」と訳されて二度現れ(三二、三三節)、本福音書一五章ではぶどうの木と枝の説話でくり返し用いられ、主イエスとの生命関係を指し示している。この交わりにおいてこそ、主イエスの自己開示がなされるのである。主イエスの招きはご自分が誰であられるかを知る彼らへの約束の実現につながっているのである。
その結果、その翌日――この一日は数えられていない――、アンデレの兄弟シモンへの証言が引き起こされる。主イエスの人格的な顕現は人を証言者にならざるを得なくする。彼は「わたしたちはメシア(原語は〝キリスト〟)に出会った」と言う。この出会いの先行者・主体は主イエスである。そこで初めて人格的な認識が起こる。崇高、希有、唯一最奥の感動と喜びの出会いである。それゆえ、親しい無二の誰かと分かち合わずにはいられない内心経験となるのである。
この主イエスとの出会いが証言の連鎖をわれわれにも引き起こしてゆく。その翌日の物語はそれを伝える。「来て、見なさい」、それが証言連鎖の招きの言葉となっている。主イエスの「来なさい。そうすれば分かる」と用いられている言葉は同じ。違いは後半が約束か勧めかである。主イエスの顕現がキリスト者を証言者へと押し出す力となる。不特定多数というよりも、身近な誰かのための証言者へと。
<今週のお花>